五禽戯の創始者で神医と呼ばれた華佗

後漢末・三国初期の神医
華佗(HUA TUO)

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華佗(西暦紀元104〜208年)は、字(あざな)を元化(げんか)といい、中国安徽省亳州市に生まれました。

中国後漢末から三国初期の有名な医薬学家で、内科、外科、婦人科、小児科、針灸科などに精通していました。

当時、中国は到るところで戦場と化しており、また洪水や干ばつ、疫病に見舞われ、多くの人々が苦しい日々を過ごしていました。

その光景に心を痛めた華佗は、地位を求めず各地を駆け回り病人の治療にあたっていました。名誉を得ようとせず、全精力を漢方薬の研究と医学の向上に注いでいた華佗は、その人柄と卓越した医術から「神医」とも称されていました。

幼い頃より熱心に勉強し、後に医学と養生学をよく学んだ華佗は、各地を巡り有名な医師を訪問しその医術を学び、また民間の治療法なども収集し、豊かな経験と知識を修めていました。

華佗の性格は大らかで気骨があり、名利や朝廷の力に屈せず、一人の民間の医師として、自らの医学の知識と技術を費やして、多くの人々の病と苦悩を癒していました。さらに当時の記録によると、華佗は百歳にしてその容貌は青年のようであったと記されています。

また華佗は高度な外科手術の技術を持っており、特に外科手術において初めて"麻沸散"という薬を用い全身麻酔の外科手術を行ったことから、「外科医学の鼻祖」とも称されています。

上の写真は、当時の手術上薬工具(華佗記念館 所蔵)です。

晩年、華佗は三国志で有名な曹操に強制的に召喚され、朝廷専属の医師として働いていました。当時曹操は「頭風」という病に犯されており、慢性的な頭痛に悩まされていました。華佗は曹操に外科手術を勧めましたが、疑心の強かった曹操はその言葉を信じず、暗殺を企てていると疑ったため、怒った華佗は実家へ帰り朝廷に戻ることを拒絶したため、曹操に捕らえられ、無念の中、獄中で最期をむかえました。

五禽戯を創始する
〜生命在与運動〜

華佗は、岐黄と数経に精通し、先人より導引吐納術と養生思想を学び、これを深く研究し、全面的に導引の特徴と作用をまとめ、中医学理論の『黄帝内経』の陰陽五行説によって人体の臓腑、経絡、血気の活動規則を結び付け、多様で異なっている動物の活動の姿と習慣を観察し、虎(猛)、鹿(敏)、熊(穏)、猿(智)、鳥(和)の内在する性格の特徴を元に、養生法「五禽戯」を創造しました。

華佗の遺した身体鍛錬の理論とは、「人体は運動を欲している、しかし極を過ぎてはならない。適度な運動は食物を消化し、血脈を流通させ、病を生じない。即ち、常に動いている枢が朽ちることはなく、常に流れている流水が腐ることはない。」というものでした。

この理論に基づいて創始された「華佗五禽戯」は、約1800年後の現在まで脈々と伝えられています。中国気功や中国武術の鼻祖と呼ばれ、のちに発展した数多くの気功・武術の門派に、その思想と運動体系で影響を与えています。

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